【暴露】受験産業は"悪"なのか? Wakatte.TVと30年前の記憶がつなぐ「やばい真実」

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「Fラン大学にしか行けないんでしょうか…」
今から30年近く前、私が東京の進学塾で働いていた頃、面談室でうつむく高校生の顔が忘れられない。彼の不安そうな瞳の奥には、数字で刻まれた「偏差値」という烙印への恐怖があった。私たちは彼を励まし、テクニックを教え、なんとか一つでも偏差値の高い大学へ押し込もうと必死だった。それが我々の仕事であり、正義だと信じていた。
そして現代。YouTubeを開けば、Wakatte.TVが「学歴エンターテイメント」として人気を博している。街頭で学生に大学名を聞き、いじり、時に称賛し、時にこき下ろす。その軽快なテンポの裏で、かつて面談室で見た生徒の不安と同じ種類の感情が、エンタメとして大量消費されている現実がある。
私はこの光景を見て、そして自らの過去を振り返って、強烈な既視感と一つの疑念に苛まれるのだ。
「受験産業は、本質的に何も新しいものを生み出さない、非生産的なビジネスなのではないか?」
今ある大学を偏差値という物差しで序列化し、人々の不安を煽って金を稼ぐ。その構造は30年前から、いや、もっと昔から何一つ変わっていないのではないか。
この記事では、単なる懐古主義や感情的な批判に留まらず、一人の元・業界関係者として、そして現代を生きる一人の人間として、受験産業が抱える根深い問題と、その先に私たちが目指すべき未来について、徹底的に掘り下げていきたい。これは、受験に悩む学生や保護者、そしてかつて受験生だったすべての大人に読んでほしい、一つの「問題提起」である。
第1章:偏差値という名の"麻薬" - 受験産業の功罪
まず、受験産業を一方的に断罪するのはフェアではない。彼らが果たしてきた「功」の部分も確かにある。
功績①:教育格差の是正
地方の公立高校に通う生徒が、東大や京大を目指せるようになった背景には、全国に校舎を展開し、質の高い教材と情報を提供してきた予備校の存在が大きい。住む場所や通う学校によって生じる「情報格多」を埋め、意欲ある若者にチャンスを与えてきた側面は否定できない。
功績②:学習効率の最大化
長年のデータ蓄積に基づいた「出る順」「頻出パターン」といった分析、記憶に残りやすい語呂合わせ、難解な概念を分かりやすく解きほぐすカリスマ講師の授業。これらは、膨大な試験範囲を効率的に攻略するための強力な武器であり、多くの受験生を合格へと導いてきた。
しかし、その光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。問題は「罪」の部分だ。
罪過①:「不安」を燃料とするビジネスモデル
受験産業のビジネスモデルは、極めてシンプルだ。「このままではあなたは志望校に合格できないかもしれない」という不安を煽り、「私たちのサービスを利用すれば合格の可能性が上がる」という希望を売る。その最も強力なツールが「偏差値」だ。
偏差値は、集団内での相対的な位置を示す便利な指標ではあるが、いつしか個人の能力や価値を測る絶対的な物差しであるかのように一人歩きを始めた。A判定、C判定、E判定…。アルファベット一つで天国と地獄が分かたれる世界。このシステムは、生徒や親の不安を最大化し、「もっと上のクラスへ」「もっと偏差値の高い大学へ」という競争を永続的に煽り続ける。
罪過②:思考停止と「正解探しゲーム」への誘い
大学入試という明確なゴールがあるため、受験産業の提供する教育は「いかに効率よく正解にたどり着くか」に最適化されがちだ。なぜそうなるのかという本質的な問い(Why)よりも、どう解くかという技術(How)が優先される。
その結果、生徒たちは「問いを立てる力」や「自分なりの答えを創造する力」を育む機会を失い、用意された問いに対して用意された正解を素早く見つけ出す「正解探しゲーム」のプレイヤーになってしまう。これは、予測不可能な現代社会を生き抜く上で、本当に必要な能力なのだろうか。
罪過③:Wakatte.TVが象徴する「学歴のエンタメ化」と序列の再生産
Wakatte.TVは、この構造を巧みに利用した現代の象徴だ。彼らは言う。「これはエンタメだ」と。確かに面白い。しかし、その笑いの根底にあるのは、「良い大学は偉い、そうでない大学は…」という、剥き出しの学歴序列主義だ。
【みんなの声】
「Wakatteは面白いから見ちゃうけど、自分の大学がバカにされてる回は正直へこむ。笑って見てる自分も嫌になる」(20代・大学生)
「高学歴の人が低学歴をいじって笑い者にする構図。あれをエンタメって言って許されるなら、世の中のいじめもエンタメになってしまう」(30代・会社員)
彼らの動画は、京大や早慶といった高学歴の演者が、その「権威」を背景に他者を評価する構図で成り立っている。これは、視聴者に対して「学歴こそが人の価値を決める」というメッセージを、エンタメというオブラートに包んで刷り込み続ける行為に他ならない。社会に出れば、そんな単純な物差しで世界が回っていないことなど誰もが知っているはずなのに。
社会は、多様なバックグラウンドを持つ人間が、それぞれの個性や能力、そして人間性で繋がり、協働することで成立している。いつまでも「〇〇大学卒」というカテゴリーで人を分別し、見下したり、卑下したりする社会に、未来はない。受験産業、そしてそれを取り巻くメディアは、この旧時代的な価値観を強化し、再生産することに加担しているのではないだろうか。
第2章:なぜ彼らは変われないのか? - 業界が抱える構造的欠陥
では、なぜ受験産業は「偏差値至上主義」や「不安ビジネス」から脱却できないのか。それは、業界が根深い構造的欠陥を抱えているからだ。
理由①:消費者が「分かりやすさ」を求める
皮肉なことに、変化を阻んでいる一因は、私たち消費者側にある。
「で、結局、この塾に行ったら偏差値はいくつ上がるんですか?」
「今年の〇〇大学の合格実績は何名ですか?」
親や生徒が塾・予備校を選ぶ際、最も気にするのは、この「分かりやすい指標」だ。「私たちは、お子様の非認知能力を育て、社会で生き抜くための主体性を育みます」などという理念を語られても、ピンとこない。目に見える「合格実績」や「偏差値アップ」という成果を求めてしまうのだ。この需要がある限り、供給側である受験産業が変わるインセンティブは働きにくい。
【みんなの声】
「息子の塾選び、結局は合格実績で決めちゃったな…。探究学習とか色々やってる塾もあったけど、大学に受からなきゃ意味ないと思って」(40代・保護者)
「塾の先生に『もっと本質を考えろ』とか言われても、『いいから早く点数上がる方法教えてくれよ』って思っちゃうのが受験生の本音」(10代・高校生)
理由②:「大学入試」というゴールが変わらない
受験産業は、あくまで大学入試という既存のシステムへの「最適化」を商品としている。ゴール(入試制度)が大きく変わらない限り、そこに至るまでの道筋(受験勉強)を根本から変えることは難しい。彼らにとって、入試制度の変革はビジネスモデルの崩壊に繋がりかねないリスクですらある。だからこそ、既存の「学歴」という価値観にあぐらをかき、新しい教育価値の開発を怠ってしまう傾向にあるのだ。
理由③:「教育の研究開発」は金にならない
私が冒頭で述べたような、「どうすれば認知能力が上がるか」「最適な学習環境とは何か」「学力と遺伝・環境の関係」といった本質的な研究は、莫大なコストと時間がかかる。そして、その成果がすぐにビジネスに結びつくとは限らない。
それよりも、過去問を分析し、次の試験に出る問題を予想する方が、遥かに手っ取り早く、かつ直接的に「合格」という成果に繋がり、利益を生む。受験産業が民間企業である以上、この収益性の罠から抜け出すのは容易ではない。
第3章:受験産業が「教育開発産業」へ - 未来への処方箋
では、このまま諦めるしかないのだろうか。いや、そうではない。私は、受験産業が自らの呪いを解き、社会にとって真に価値ある存在へと進化するポテンシャルを信じている。そのために、彼らが目指すべき「未来の姿」を具体的に提案したい。
提案①:「認知科学×教育」の本格導入
もはや精神論や経験則で指導する時代は終わった。最新の脳科学や認知心理学の知見を全面的に取り入れるべきだ。
例えば、
- 「分散学習」と「インターリービング」: 一つの科目を長時間やるより、複数の科目を短時間で切り替えながら学習する方が記憶に定着しやすいという研究結果をカリキュラムに反映させる。
- 「メタ認知」のトレーニング: 自分の学習状況を客観的に把握し、「何が分かっていて、何が分かっていないのか」を自己分析する能力を体系的に鍛えるプログラムを導入する。
- 「最適な学習環境」の提案: 睡眠時間、運動、食事、デジタルデバイスとの付き合い方など、学習効果を最大化するための生活習慣までを科学的根拠に基づいて指導する。
こうした研究成果を、一部のエリート校だけでなく、すべての塾生、さらにはブログや動画を通じて社会全体に広く発信していく。それこそが、情報格差を埋めるという本来の役割を、より高いレベルで果たすことになる。
提案②:「非認知能力」を育むプログラムの必須化
これからの社会で求められるのは、学力(認知能力)だけではない。目標に向かって努力する力、他者と協働する力、新しいものを創造する力といった「非認知能力」だ。
受験産業は、「合格」という明確な目標達成プロセスを通じて、この非認知能力を鍛える絶好の場となりうる。
- 探究学習(PBL)の導入: 「なぜ世界から貧困はなくならないのか?」「10年後の社会に必要なサービスは何か?」といった、”正解のない問い”に対して、生徒たちがチームで調査・議論し、発表する機会を設ける。
- キャリア教育との融合: 様々な業界で活躍する社会人OB/OGを招き、「大学で何を学ぶべきか」「その学びが社会でどう活きるのか」をリアルに語ってもらう。単なる大学選びではなく、その先の人生を考える視点を与える。
「そんなことをやっている暇があったら、英単語を一つでも覚えさせろ」という声が聞こえてきそうだ。しかし、こうした活動で培われる主体性や知的好奇心こそが、結果的に学習意欲を高め、学力向上にも繋がるのだ。
提案③:「脱・偏差値」を掲げる情報発信基地へ
受験産業自らが、「偏差値は絶対的な物差しではない」と声高に叫ぶべきだ。大学の魅力は、偏差値だけでは測れない。特色ある研究をしている教授、ユニークなカリキュラム、充実した設備、素晴らしい学風。そうした多角的な情報を集め、生徒一人ひとりの興味・関心とマッチングさせる「未来志向の進路指導」を行う。
Wakatte.TVがやるような学歴いじりではなく、「この大学のこの研究室が、今、世界を変えようとしているんだ!」といった、知的好奇心を刺激するポジティブな情報発信こそ、彼らが果たすべき役割だろう。
最終章:私たち一人ひとりが「呪い」を解く鍵
受験産業の変革を求めるだけでは、片手落ちだ。彼らを縛り付けているのは、他ならぬ私たち社会の側でもある。この「偏差値の呪縛」を解くために、私たち一人ひとりにできることがある。
生徒へ: 偏差値は、今のあなたの学力を示すただの数字だ。君の人間性や未来の可能性を決定づけるものではない。大学の名前で人生が決まる時代は終わった。大切なのは、君が何を学びたいのか、何に情熱を燃やせるのかだ。そのための「手段」として、大学を賢く利用してほしい。
保護者へ: どうか、「合格実績」だけで塾を選ばないでください。その塾が、あなたのお子さんを、一人の人間としてどう育てようとしているのか。その教育理念にこそ、目を向けてほしい。我が子の人生の成功は、「良い大学に入ること」ではないはずだ。
社会・企業へ: いつまで「学歴フィルター」という旧時代の遺物に頼るのですか。出身大学名ではなく、その人が何を考え、何を成し遂げてきたのか、そのポテンシャルを多角的に評価する採用活動へと舵を切るべきだ。社会全体で「多様な物差し」を育てていく必要がある。
結論として、受験産業は「悪」ではない。しかし、現状のままでは「時代遅れの非生産的な存在」であり続けるだろう。
彼らが既存の価値観にあぐらをかき、不安を煽るだけのビジネスに終始するのか。それとも、教育の本質に立ち返り、最新の知見と情熱で、子供たちの未来を創造する「教育開発産業」へと生まれ変わるのか、それが問題だ。